「報道の自由」は手段か目的か
(小論文時事問題)


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加藤達也(産経新聞前ソウル支局長)による2014年8月3日掲載のウェブサイト記事が、韓国の朴大統領の名誉毀損にあたるとして起訴された。この件は日韓の枠を越えて大きな問題へと発展し、多種多様な論争が巻き起こっている。ここでは、この件を「報道の自由」に関する学術的観点から眺め、分析したい。ただし、「日韓関係がどうあるべきか」「右翼系‐左翼系新聞の対立」などの議論には触れない。

「報道の自由」に関する報道

近年、「報道の自由」に関する事件・論争が頻発している。先ほどの件以外にも、2014年10月にイスラム国渡航を予定した北大生の案内役であったフリージャーナリストが家宅捜索を受けたことや、2014年施行予定の特定秘密保護法など、「報道の自由」の侵害にあたると報道されている。逆に、2014年8月5日、朝日新聞が従軍慰安婦関連報道が誤りであったことを認め、行き過ぎた「報道の自由」が批判されている。

これを受け、日本における報道の信頼度も低下している。元来、日本は報道による影響力が強い国柄であり、最近の調査でも「新聞・テレビを信頼している」と60~70%の人が答えていたそうだ。これと比べ、欧米各国では10~30%程度の低い数字に留まっている。しかし、日本でも偏向報道や捏造報道が明るみに出る機会が増え、インターネットの普及も手伝って、新聞・テレビの信頼度が急速に低下している。

ここで、「報道の自由」に関する報道こそ、慎重に検証すべきだと注意を喚起したい。なぜなら、「報道の自由」に関する報道は、「自己言及のパラドックス」と良く似た構造を持っているからだ。

 「報道の自由」に関する学説

1963年の「マス・コミの自由に関する四理論 (現代社会科学叢書)」によれば、プレス(狭義には報道、広義には自由意志を持つ市民全体)には4つの型(理論)があるという。それは、権威主義理論、ソビエト共産主義理論(現代では無用なのでここでは触れない)、自由主義理論、社会的責任理論の4つである。権威主義理論は国家の繁栄が第一目的であり、プレスは国家の僕となることが求められる。これに対し、自由主義理論では個人の自己利益が第一目的であり、プレスは国家を監視する役割を担う。

このような(古典的)自由主義理論の前提は性善説であり、人間は「自由」を手に入れれば自然に真理と道徳に満ち溢れた存在になると考える。そのため、自由主義理論のプレスは「報道の自由」が目的となる。現代日本の代表的なプレス(朝日新聞など)も、この自由主義理論に基づいていると考えられる。

プレスは国家を監視することで国家を健全化させるが、そもそもプレス自身の健全さは誰も保障していない。現代におけるプレスの自由の危機とは、権力者による圧力ではなく、プレス自身だと言われる。プレス自身が少数に独占され、資本が集中し、絶大な力を持つことによって、自分で自分の自由を侵害する可能性を捨てきれない。この文脈において、「報道の自由」が守られなければ民主主義が保てないのではなく、「報道の自由」が民主主義にとっての脅威になりかねないのだ。

ここで、話を戻して3つ目の社会的責任理論に注目してみたい。社会的責任理論は自由主義理論の発展形であるが、プレスは「報道の自由」を目的とするのではなく、社会的責任を果たす手段として「報道の自由」を持つ。社会的責任が何を指すかは諸説あるが、「民主主義を守る」ことに限定される訳ではない。プレスの社会的責任を一義的に決めることは出来ないが、一つの形として『社会を判断するための適切な情報を提供し、市民による公共的議論の場を提供し、社会保障やコミュニティの利益を向上させる』と言える。

ただ、現在の多くの報道は、社会的責任理論とは遠い位置にある。プレスの社会的責任理論が発表された当時、報道関係者は激しく反対した。時代が流れるにつれ、報道と市民はさらにかけ離れた存在になっていった。その結果、市民ではなく報道が『重要な情報を選り分けて社会を判断し、自分たちが公共的情報そのもの』となっている。

 「国家と報道」の対立軸から見た、加藤氏起訴事件

では、加藤氏が韓国で起訴された事件を、社会的責任という観点から分析してみよう。

まず、この件に関する朴大統領および韓国政府の対応を見てみよう。そもそも、朴大統領は反日的な政策を取らざるを得ない背景がある。朴大統領の父親、朴正煕元大統領の影響(元日本帝国軍士官、日韓基本条約締結など)で親日派だと見なされることは政治的な死を意味し、常に反日的な姿勢を維持せざるを得ない立場にいる。そんな中で日本の報道、しかも韓国に批判的な産経新聞のゴシップ記事を放置する訳にもいかず、加藤氏に謝罪を要求した。これは、対日外交よりも国内世論を強く意識した方針だと考えられる。この件が、朴大統領を支持する市民団体の告発をきっかけに始まったことからも、その状況は見て取れる。支持率が低迷する朴大統領にとっては、支持基盤からの信頼を失うことほど恐ろしいことは無いだろう。その後、加藤氏が謝罪を拒否したことで事態が悪化し、予想しなかった大問題に発展してしまったという可能性が高い。

だがこの件が、政権安定化という「社会的責任」を果たすためにとった苦渋の決断だと考えれば、一定の理解ができる。もちろん、朴政権安定化が韓国社会にとって良いものか、起訴という方法論が妥当なものであったかは、大きく疑問が残るのは確かだ。ただ、朴大統領がリスクを取ってでも貫いた政治的判断であるならば、報道が「社会的責任」を果たすためには、言論弾圧だとの一面的な批判するだけではなく、より専門的な分析と外交対策の議論をしなければならない。

ところで、加藤氏の記事は、「社会的責任」上、本当に必要な記事であったのだろうか。加藤氏の記事を要約すると「セウォル号事故当日、朴大統領がある男性と密会していたらしい」という内容である。真偽はともかく、韓国国内のゴシップ情報を集めた、決して上品とは言えない論調である。セウォル号事故に対する政府対応の批判であればともかく、プライバシーに関わるゴシップで非難する記事は、「社会的責任」を果たしているとは言いがたい。

「報道の自由」は誰のものか

報道各社が、自らの社会的責任を批判することは難しい。朝日新聞も、従軍慰安婦記事の誤りを公表しながら、未だに不明瞭な態度をとっていることからも、それは明らかだ。では誰が、報道に対して社会的責任を追求すればいいのか。1947年の「自由で責任あるメディア―米国プレスの自由調査委員会報告書」において、それは市民の責任だと提示されている。

プレスは国家を監視することで国家を健全化させるが、プレスは市民によって監視されることで健全さを確保できる。そうであれば、インターネット全盛期の今ほど、報道の社会的責任を追及が可能な時代はないと言える。報道と市民が相互批判することが、社会的責任を持つ「報道の自由」が実現する鍵なのだ。

ところでプレスという言葉は、過去においては新聞・テレビなどの情報発信者、つまり報道を指していた。しかし現代においては、ブログやツイッターで情報発信が可能な市民も、プレスの一部であるという自覚をしなくてはならない。ブログやツイッターで自由気ままな発言をすることは「報道の自由」ではない。どんなに小さいメディアであろうとも、公共的議論と相互批判を行い、「社会的責任」を持つべき時代となったのだ。2014年、若干17歳でノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんは、「社会的責任」を果たす市民プレスの、あるべき姿を映し出しているのかもしれない。

 

<参考文献>

平石隆敏(2008)「プレスの自由と社会的責任理論」京都教育大学紀要 No.112

加藤達也(産経新聞前ソウル支局長)による2014年8月3日掲載のウェブサイト記事

加藤氏起訴に関する記事1

加藤氏起訴に関する記事2

朴大統領が反日的な理由