死のインセンティブと長寿リスク
(小論文時事問題)


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2008年9月15日、全世界の金融危機を引き起こしたリーマン・ショックから、6年が経った。そのあおりを受けた日本は、日経平均株価が6000円台に暴落、急激な円高が進み1ドル87円となり、「失われた10年」が「20年」に延長されることとなった。現在の日本経済は回復傾向にあり、先日、やっと日経平均株価は1万6000円台、1ドル109円とリーマン・ショック以前の水準に戻った。ただし、グローバリゼーション3.0と呼ばれる現代は「国を超えた個人の時代」であり、国の浮き沈みとは無関係に個人のライフプランを設計をする必要性がある(1)。今回はライフプランに欠くことのできない、生命保険と年金、さらに第三の選択肢、ライフ・セトルメント(Life Settlement)とその倫理的問題に関して考えてみたい。

生命保険と年金は、相反するコンセプトを持ちながら互いに補い合い、契約者の人生を助ける金融商品といえる。一般的には、生命保険は病気・突然の死などのリスクを回避し、年金は労働収入がなくなるリスクを回避するための、原契約者とその家族を保護する商品だ。だが市場原理から考えれば、早く死ぬことが利益(被保険利益)になるのが生命保険、長生きが利益になるのが年金であり、相反するコンセプトを持つ。両者の共通点は、大きな利益を得る原契約者(早く死ぬor長生き)が少数であり、それ以外の大多数からの契約金で営利事業を成り立たせていることである。つまり、波風無く平和な人生を送り、平均的な寿命で亡くなる大多数は、生命保険と年金によって損をしている。もちろん、たとえ確率が低くとも「早く死ぬor長生き」のリスクは非常に高い。そのため、リスクヘッジとして両者の契約をするのが普通の選択となる。

近年では第三の選択肢として、ライフ・セトルメントに注目が集まりつつある(2)。2000年ごろにアメリカで始まったライフ・セトルメントは、健康な高齢者の生命保険を高額で買い取る事業である。ライフ・セトルメント企業が継続して保険料を払い、原契約者(高齢者)が死亡したら保険金を受け取る。原契約者は少ない収入から保険料を払う義務から解放され、生命保険を一回払いの高額な年金に転化させることができる。一見すると両者共に利益を得る事業だが、実は一人損となるのが生命保険会社である。今までは生命保険契約の40%が途中解約し、満額を払わずに済んでいたビジネス・プランが狂い、大規模な訴訟問題に発展した。さらには、原契約者が早く死ぬほどライフ・セトルメント企業は儲かるため、他人の死がインセンティブ(人の意思決定や行動を変化させる要因)となることが、倫理的に問題視されはじめた。実際、ライフ・セトルメントが法で規制されている国もある。

このような国の思惑や人々の倫理観に逆行し、ライフ・セトルメントは自由市場の中で進化を続けている。潜在的に1000億ドルの市場を持つライフ・セトルメントはウォール街の注目を集め、2009年ごろから証券化されはじめた。つまり、寿命が一定ではない原契約者の「長寿リスク」を避けるため、複数人のライフ・セトルメントをまとめてパッケージ化し、金融商品にしたのだ。これは、リーマン・ショックの原因ともなった、サブプライム・ローン(信用度の低い人向けの住宅ローン)をまとめてパッケージ化した金融商品、サブプライム・モーゲージと同じコンセプトだ。証券化されたことでライフ・セトルメント市場は急速に拡大しており、投資家たちが続々と参入してきている。中でも、同じ「長寿リスク」をもつ年金基金の投資家が、リスクヘッジに利用している場合が多いと言われている。

このライフ・セトルメント市場は、日本と無関係な話ではない。2014年5月には、厚生年金基金の投資運用会社がライフ・セトルメント投資に失敗し、106億円の損失を出したと世間を騒がせた(3)。さらに、ライフ・セトルメント市場の次なる標的が、世界第二位の40兆円市場をもつ生命保険大国、日本という可能性も捨てきれない。日本国内の判例では生命保険の転売が認められていないが、あくまでも個別ケースとして扱われており、転売自体が禁止された訳ではないからだ(4)。

ここで、今一度ライフ・セトルメントが持つ倫理的問題に立ち返ってみたい。ライフ・セトルメントの倫理的問題は、他人の死がインセンティブとなり、長寿がリスクとなることに端を発している。実は、この倫理的嫌悪感は、生命保険と同じ根を持っている。生命保険も(イギリスを除く)欧米社会で道徳的嫌悪感を抱かれていたという過去がある。保険ビジネスの始まりは17世紀末ごろだが、人の死を賭博として扱う生命保険は忌み嫌われ、少なくとも200年近くは市場に姿を現さなかった。19世紀末、市場原理を極力排除し、「遺族の救援」という道徳的価値を付与することで、生命保険はやっと市民権を得ることができた。200年後の現在、ライフ・セトルメントが生命保険の道徳的な仮面をはがし、死の賭博としての側面が現れた。ライフ・セトルメントの倫理的問題を論じる前に、生命保険の倫理的問題を考え直す必要があるのだ。

ハーバード大学のマイケル・サンデル教授は、ライフ・セトルメントに対して「市場原理は容易に倫理観を追い出す」と批判する。人類を豊かにするするために生み出された市場原理が、今やグローバル社会を支配し、人間の倫理観を排除しつつあるというのだ。さらに、これらの問題を小論文で論じることは、ことのほか難しい。小論文も倫理観や道徳観を排除し、論理性をもって書く必要があるからだ。だが、だからこそ小論文を書くにあたって、自分の倫理観にこだわるべきであろう。論理性は小論文を書くための道具でしかない。倫理観と論理性、相反するコンセプトが互いに補い合った小論文こそ、説得力があり評価されるものだと、私は考える。ライフ・セトルメントも含めたグローバル経済の諸問題に対しても、この「倫理観」が解決の鍵となるのかもしれない。この結論では小論文としては失格だが、あえて本記事を問題提起で締めたいと思う。

 

<参考文献>

 

(1)グローバリゼーション3.0

(2)ライフ・セトルメントについて

(3)厚生年金基金によるライフ・セトルメント投資の失敗のニュース

(4)ライフ・セトルメントに関する日本の判例