靖国神社に関する比較文化論的アプローチ
(小論文時事問題)


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2013年12月26日、安倍晋三首相が靖国神社に参拝したことに対し、国内メディアや中国・韓国政府が一斉に批判し、大きな外交問題へと発展した。日本の同盟国であるアメリカでさえも、靖国神社参拝は東アジアの緊張を悪化させる行為だと批判した。このように、日本の首相による靖国神社参拝は政治的側面が強調されがちだ。しかしながら、政治的な枠組みだけでは、日中韓の国民感情がジェットコースターのごとく浮き沈みする理由を説明しきれない。ここでは、靖国神社参拝が問題化する理由と分析を、比較文化論的なアプローチで試みる。ただし、各国の文化はひとくくりで一面的に論じることはできないので、あくまでも最大公約数的な文化として割り切ることにする。また、ここでは政治的思惑から切り離された国民感情に焦点を当てるため、政治的要素を極力排除して論ずることにする。

日中韓における死生観の違い

各国の靖国神社に関する国民感情のベースは、それぞれの文化的背景に根ざしている。靖国神社に対する議論がいつまでも終わらない理由も、その文化的違いに由来する。そのため、靖国神社に関して議論する前に、まずそれぞれの文化の違いを明確にする必要がある。

日本と中国・韓国の最大の文化的違いは、儒教の位置づけである。日本における儒教は倫理・道徳の基本であり、日本文化を構成する重要な思想の1つだ。ただし、あくまでも思想の1つであり、仏教・神道のような宗教とは認識されていない。これに対し、中国・韓国における儒教は宗教的価値観の根本であり、それぞれの文化の中心的存在である。

中国・韓国の文化を端的に表しているものは、儒教における「招魂再生」の死生観である。儒教において、人は魂(精神を支える気)と魄(肉体を支える気)を持っており、これらが天と地に帰ることが死だと定義する。そして、子孫が先祖を祀る儀式をすることで、再び魂と魄が戻ってきて再生することが、「招魂再生」である。さらに、先祖が再生することで子孫も繁栄するため、親孝行が推奨される。しかし、もし子孫が先祖を祀らなくなれば、その先祖は永遠に再生できず、宗教的な死を迎えることになってしまう。祖先を祀る子孫がいなくなることを防ぐため、直系男子を産むことが重要視され、長男が単独で家督相続することが当然となる。逆に言えば、たとえ死んでも子孫さえいれば、半永久的に再生できるのだ。そのため、古代中国で最も厳しい刑罰は、先祖を祀る一族郎党全員の処刑、族誅であった。現在でも、中国・韓国で最重要視される宗教儀式は、直系先祖を祀る盆正月の祭事である。

これに対し、日本の死生観は神道と仏教の影響を強く受けており、中国・韓国とは質的な違いがある。仏教においては生そのものが無常で儚い存在であり、死後は一旦浄土へと行き、生前の行いに応じて輪廻転生する。神道では自然のあらゆるものに神が宿っており、力の強い人物や恨み・未練を残した人物も亡くなれば神とする、「八百万の神」とする信仰観が存在する。これらの神は、祀ればご利益をもたらすが、適当に扱えば祟りをもたらすこととなる。日本の先祖崇拝は、どちらかといえば神道の文脈から発生しており、儒教との関連性は決して高くはない。

日本人にとっては、靖国神社の政治的特徴よりも、神(御霊)を祀る神社という前提が、強いように感じる。いわゆるA級戦犯の合祀に関しても、日本人の文化的抵抗感は弱い傾向がある。もちろん、東京裁判の正当性など含め、A級戦犯が犯罪者かどうかは意見が分かれている。日本を守った英霊であるならば、祀ることは当然だろう。しかし、たとえ犯罪者であったとしても、御霊をちゃんと祀らなければ祟るのだから、どちらにせよ祀らざるを得ないのだ。だから、A級戦犯の分祀という他国には理解しがたい解決案が出てくるのだ。しかし、中国・韓国の観点からは、直系先祖ではない戦没者を祀って「招魂再生」し、魂魄の意思を受け継ぐ自分たちの繁栄を願う行為だと受け止められてしまう。日本の首相が靖国神社を参拝することに対し、中国・韓国がヒステリックに反応する理由の1つが、死生観に基づく先祖崇拝の差異である。

日中韓における「恨み」の違い

さらに、日中韓における「恨み」の感情も、文化的に大きな隔たりがある。この「恨み」が、靖国神社に対する国民感情を、一層深刻化させる要因となる。

中国は、「恨み」対象者が死んでも恨み続ける、「死者に鞭を打つ」文化である。古代中国の武将である伍子胥は、親兄弟の敵であった楚の平王に復讐するため、墓を暴いて遺体を引きずり出し、鞭を打ったと言われている。日本では報復のやりすぎを非難する「死者に鞭を打つ」の故事成語だが、中国ではそのようなニュアンスが含まれていない。中国では、「死者に鞭を打つ」ほどの強い恨みを表すだけだ。同様に、歴史的に売国奴と見なされている秦檜や汪兆銘といった人物は、死後も罪人姿の像が作られ、中国国民に罵倒され唾を吐かれている。中国で恨まれた人物は、死後も「招魂再生」されるため、半永久的に恨まれ続けるのだ。

韓国の「恨み」はハン(恨)と呼ばれ、韓国人の根本的な情緒だと言われている。中国という強者の隣国にある地理的背景、他国から侵略され続けた歴史的背景から、韓国は圧倒的な力に耐え忍ぶ環境が多かった。そのように果たせなかった「恨み」が、自分の内で複雑で激しい感情へと昇華したものが、ハンである。ハンとは、自分の理想とする姿に、今の自分がいないことに対する無念の気持ちとも言える。そのため、「恨み」対象者が罰せられたり死んだとしても、自分が既に理想の姿ではないので、ハンは残り続けるのだ。さらに、このハンが「招魂再生」されることで、やはり半永久的な存在となってしまう。

日本にも「恨み」の文化はあるが、「恨み」対象者の死後の扱いが中国・韓国とは大きく異なる。日本では、古来より「恨み」の概念が確立されており、強い恨みが生霊となって対象者を呪い殺すと考えられていた。江戸時代においても、親を殺された恨みを晴らす「敵討ち」が合法的であり、歴史的文芸作品における重要テーマとして多数取り上げられてきている。しかし、「恨み」の対象者が死んだ後も恨み続けることは、恥ずべき行為、死者への冒涜と考えられている。死を前提とする武士道の影響や、人が死ねばみな神・仏になるという宗教観もあり、死後は「恨み」が継続しないのだ。むしろ、死者の「恨み」が生者に及ばないよう、「恨み」対象者を祀ることさえする。

靖国神社に祀られた御霊は、中国・韓国にとっては半永久的な強い「恨み」の対象だ。しかし、日本人にとっては、その「恨み」を理解することが、非常に困難なのだ。

靖国神社に関する議論は、解決できるのか

日本では良しとされることが、文化の異なる中国・韓国では悪となる。しかし、だからと言って中国・韓国を文化的に劣った国だと断定することは、明らかに独善的だ。むしろ、文化相対主義の考えに基づいて、理解を示す必要があるかもしれない。文化相対主義とは、世界中のあらゆる文化に優劣は存在せず、対等なものだと説いている。つまり、中国・韓国の文化を、日本の文化をもって判断すること自体が問題だということになる。相手を一方的に決め付けるのではなく、相互理解を求める文化相対主義は、グローバル化の進む世界で台頭しつつある。

しかし、文化相対主義では、靖国神社に関する議論の深刻化を防ぐ効果はあっても、根本的な解決ができる訳では無い。日中韓の文化的違いを尊重・理解したとしても、対立する死生観を共有することが困難だからだ。また、和を重要視する日本は、文化相対主義を過剰なほど理解できるかも知れないが、中国・韓国がそうとは限らない。中国は社会主義国で文化そのものに懐疑的であるし、韓国は自国文化を誇る「文化」が良しとされている。文化相対主義自身が抱える問題点も多くあり、靖国神社に関する議論の解決策とはなり得ない。

同様に、アメリカのような第三国に解決を委ねることも、困難が予想される。日中韓と欧米の文化・思考のベースが大きく異なり、各国間の文化摩擦の原因理解すら困難だからだ。たとえ第三国が合理的な政治的解決案を主導したとしても、国民感情の摩擦は長く尾を引くこととなる。結局、当事者である日中韓が、自分たちで解決すべき議論なのだ。

今後の日中韓関係

靖国神社に関する議論は、日中韓の政治的思惑が原因となって拡大・深刻化したものかもしれないが、逆に現在では、各国の政治を左右する原因となりつつある。各国政府の抑止力を越え、それぞれの国益を大きく引き下げている場合もある。

靖国神社に関する議論の解決策を提示することは、非常に難しい。たとえば、より広い視野に立って、各国の文化に理解を示して共通点を探す。より高い視野に立って、将来の東アジア共同体を構想する。などの方法を考えることもできる。これでは根本的な解決とは言い難いが、むしろ、日中韓が協力して解決策を模索することこそが、解決なのかもしれない。少なくとも、「嫌韓」「反中」にこだわることは、解決とは逆の方向にしか日本を導かない、と私は考えている。

 

 <参考文献>

先祖崇拝に関して

中韓の儒教文化

靖国神社における御霊信仰