一昔前の流行語にKY(空気読めない)というものがあったが、スマートフォンが普及した現在では、KS(既読無視の類語、既読スルーの略)に取って代わられているようだ。KYは場の空気や会話の流れを読まずに乱すこと、既読無視はスマートフォンでメッセージを読んだ後にすぐ返信しないことを意味する。この2つの言葉は語源や使用状況が全く異なるが、人間関係への似通った影響力を持っている。日本の小中高校においては、既読無視がいじめに繋がる場合もあり、教育問題の一つとなっている。ここでは既読無視に関連するいじめの具体例や海外との比較、日本特有の文化との関係性について論ずる。
既読無視に関連するいじめの特徴は、インターネットのオンライン・コミュニティ上で発生し、オフラインの実生活に影響を与えるところにある。日本で普及率の高いスマートフォン・アプリ「LINE」には、受け取ったメッセージの既読・未読が表示される機能がある。既読表示後に15〜30分以内に返信しない場合、既読無視だと認識される。既読無視を理由として、まずオンラインでの着信拒否やLINEグループからの排除が行われ、続いてオフラインでの実際の人間関係で無視・いじめなどが発生する。そのようなオン・オフラインの仲間外れは思春期の子供にとって脅威であり、既読無視しないようにスマートフォンを片時も手放せなくなることもある。この新しい種類のいじめは、少ない罪悪感と簡単なスマートフォン操作で出来ることも手伝って、瞬く間に広まった。だが、実は既読無視によるいじめは日本特有の問題であり、欧米では既読無視がいじめに発展することはほとんどないと言われている。
では、既読無視について論ずる前に、まず日本と欧米のいじめ文化の違いに着目しよう。森田らの「いじめの国際比較研究」によれば、欧米でのいじめは、人間関係の薄い異年齢(年下)に対し、校庭で肉体的暴力として行われる場合が多い。それに対して日本でのいじめは、人間関係の濃い同年齢・同クラスの相手に対し、教室で心理的暴力として行われる。さらに特徴的なのはいじめ被害者の、いじめの受け止め方である。欧米では「加害者=悪」と考え、加害者への復讐、被害者の転校といった対策をとる。逆に、日本では「被害者(つまり自分)=悪」と考え、自己否定や不登校、引きこもり、自殺などに繋がる。
このいじめ文化の違いは、欧米と日本の文化的背景が原因となっている。欧米はキリスト教をベースとする個人観が確立されているため、人間関係は個人対個人のものだと考えられる。いじめも個人対個人の力関係が原因であり、強者が弱者を攻撃するペッキング・オーダー型(ジャイアンとのび太の関係)が成立する。一方、日本は「空気」―かつては「世間」と呼ばれていた正体不明の存在―が人間間系を支配している。日本の個人観は「空気」の中に埋没して確立されておらず、人間関係は「空気」対個人で考えられる。そのため、「空気」から外れた個人がいじめの対象となり、集団で被害者(弱者とは限らない)に対する四層構造(被害者を中心に加害者、観衆、傍観者が取り囲む構造)を形成する。
この文化の違いは、規範意識の差にも現れている。欧米では、神と個人の関係から規範が生じ、その規範を各個人が能動的に守る文化がある。それに対し日本では、「空気」から規範が生まれ、コミュニティからの村八分を回避するために、受動的に規範を守る。この日本的規範意識は、個人ではなくコミュニティが主体となるため安定度が高く、世界でも類を見ない礼儀正しい文化を作り上げている。震災のような極限状態でも暴動や略奪が起きないほど、日本の規範意識は安定している。その一方で、コミュニティの独立性・排他性が高いと自浄作用が低下してしまい、低モラルな規範意識で安定化する危険性がある。その場合には「空気」の影響力も強まるため、相乗効果で独立性・排他性がより一層強化されることが予想される。
この独立性・排他性の強いコミュニティの特徴は、そのまま小中高生のLINEグループに当てはめることができる。LINEグループの「空気」が強力な規範となり、参加者を支配してしまう。そのため、既読無視は規範への反逆行為として受け止められ、いじめへと発展する。これに対して欧米では、既読無視が人間関係を悪化させることがあっても、規範への反逆とは見なされず、いじめにまで発展しないのだと解釈できる。
日本人は世界的に見ても「空気」を読む力が強く、規範意識も高い。だが、「空気」を読むことに力を使いすぎることで、様々な社会問題を引き起こす場合もある。低モラルで強い影響力を持つ「空気」が生み出す社会問題は既読無視を原因とするいじめに限らず、ブラック企業とサービス残業、外国人への差別、同和問題など、例をあげれば枚挙に暇がない。ただし、「空気」を読む力はグローバル社会での必須能力であり、本来は異文化コミュニティでこそ力を発揮するはずである。だが、「空気」を読む力を人間関係向上の手段とせず、「空気」に同調することが目的となっては本末転倒である。日本に「空気」に対する個人観が導入されない限り、社会問題は解決を見ず、日本人はグローバル社会の「使われる側」にしかなれない、という危惧を私は持っている。
<参考文献>